hiroblo(ヒロブロ)

埼玉で個人事業を行うhiroのブログ

音楽活動のこと

こんにちは!埼玉県所沢市の整体サロンやすらぎどう、ヒロです。

 今回は、時々皆さんから聞かれる「音楽活動」についてお話してみます。

 

僕がピアノをはじめたのが、小学5年生のとき。

さいころから音楽が大好きで、家にあったオルガンを弾いていましたが、親に頼んでピアノを習わせてもらうことに。

 小学5年、6年の夏には「こども音楽コンクール」というのに出場。

この頃は完全に「裏声」で、ソプラノ部門を担当していました。

当時から、ハイトーンのボーカルが好きだったのです。

 

当時はもちろん、クラシックピアノでした。

中学生になると、オフコースユーミン、チューリップ、中島みゆき稲垣潤一・・といったニューミュージックが全盛期。

僕はオフコース、とくに小田和正さんの曲や声が大好きでした。

だんだん、バンドをやってみたくなりました。

まあ、そんなこともあり、だんだんクラシックに興味がなくなり、

レッスンも練習しないので、いつも先生に怒られる・・・

それで余計にイヤになり、中学2年でクラシックピアノのレッスンはやめてしまいました。

 高校時代はバンド活動が禁止。バンド=不良?、みたいな雰囲気でした。

そこで、大学に入ってからおもいっきり音楽をやろう、バンドをやろう!!と決めたのです。

大学に入学すると、迷うことなく「軽音学部」に。

軽音学部の先輩がたは、見た目、僕とは異次元の世界の怖そうな人たちばかり・・・

でも実際は、とてもいい人ばかりでした(飲み会は怖いけど・・・(ーー;)。

軽音学部で親しくなった友人とふたりでユニットを組んで演奏していたら・・ある日、みため体育会系な先輩、Mさんから

「ジャズ研の新歓コンパに顔出すだけでいいから来い!そんな音楽やってる場合じゃない!」と言われ。。。

当時、ジャズはまったく興味なかったのですが、行かないと怖そうなので(^^ゞ

「顔だけでも出そうか・・そしたらすぐ帰ろう!」と、コンパに参加。

 気がつくと・・2次会の最後までいて、ジャズ研のセッションに参加することに。

 ジャズ研での初のセッションは、僕にとって衝撃でした。

「なにかやってみろ」「適当でいいから」と言われて、まるで手も足も出なかった。

当時、コードなどまったくわからず、もちろんアドリブもできず、譜面のある曲しか弾けなかったのです。

「テーマ」以外はアドリブであるジャズには、譜面って、あるようでないようなもの。

先輩方は、わずかなコード譜だけで、延々とアドリブ演奏を続けている。

それも、かっこいい!

 「なぜ、譜面もないのに、あんな演奏ができるんだろう・・・」

なにもできない僕は、ほんとうにくやしく、情けない想いをしました。

 

 ここから、僕のジャズピアノ特訓がはじまりました。

大学の授業の合間はつねにピアノに向かい(ときには授業をサボって)、ときには夜中も延々とピアノを弾いていました。

 

特訓や先輩方のしごき?のおかげで、それなりにアドリブ演奏ができるようになり・・・

気がつけば、イベント、バー、居酒屋、大学の学園祭のメインステージなどで演奏するようになっていました。

ピーク時は、ジャズのユニットかけもち4つ!大学、バイト、そして音楽と寝る暇もないほどでした。

そして、ずっとやりたかったバンドも始め、さらに寝る時間がなくなり・・・

一週間で睡眠時間トータル8時間、なんてこともありました。

 オリジナル曲もそれなりに増えたので、地元、群馬で当時おこなわれていた「ロッカーズ」というコンテストに参加することに。

予選を通過!という連絡がきたとき、ボーカル担当が体調をくずしたのでなんと僕が歌うことに。

ところが・・・

無理がたたって、僕まで体調をくずしてしまったのです。

結局、コンテストはキャンセル。 

・・・で、ここから、僕の音楽活動は長期休止。

長い長い、療養生活がはじまるのでした。

 

長くなったので、続きはまた次回。

次回の音楽活動の話から、少しずつ僕のライブ映像を公開していきたいと思います。

 

ライブに来てくださったみなさん、共演者の和田さんと。

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